2006年2月19日日曜日

光の雨

■□■□ 【DVDレビュー】 ■□■□

『光の雨』

出演: 萩原聖人, 裕木奈江, 山本太郎, 大杉漣, 鳥羽潤
監督: 高橋伴明 2001年公開

日本赤軍の凄惨な末路を見つつ、オウム真理教と創価学会が脳裏をよぎった。盲目から狂気へ。狂気のスイッチが押されたら終わりである。


そもそもブログ活動を休止していた(モチベーションがなかった)のですが、あまりにショッキングな内容だったので一言文章にしたいなぁと。
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光の雨

この作品は「連合赤軍山岳ベース事件」を題材としており、総括と称する暴力、リンチによって12名の命を奪う内容でかなり刺激が強いです。

このあと宗教的な論旨が続きますので、苦手な方はご遠慮ください~。


■理想から
革命をしたかった。ぼく個人ばかりでなく、
全体が幸福になる世の中をつくりたかった。
・・・そのためにぼくは生きていた。
(立松和平著「光の雨」)

この時代に生きるボクには正直なところ、作中で描かれる赤軍メンバーの理想や狂気が理解できませんでした。ただただ恐ろしいと感じただけです。
赤軍が当初掲げた理想、植民地を作るがごとくの戦後の洗脳教育や、また日本を米軍の基地とすることに反対する姿勢は理解できます。それが、暴力による革命、果てはメンバー内部でのリンチ殺人にまで発展していく有体はもう理解できません。もっとも、理解できないのだから狂気なのかもしれませんが・・・。

■狂気へ
この狂気なのですが、作品を見ながら2つの実在する(実在した)団体が脳裏をよぎりました。
なんとなく連想してしまったんですね。
ひとつは「オウム真理教」。
もはやいわずもがなです。日本を震撼させた恐怖のカルト集団。
これだって元は仏教をアレンジした教えを基に平和的に内部で納まっていたわけです。
個人でやる分には特に害はないし、本人がそれで幸せなら文句もないでしょう。
だけど、終いにはおかしくなって大量殺人までやらかしてしまった・・・。
赤軍の思考の変遷と共通点があるように思えてなりません。
そしてもうひとつは「創価学会」。
彼らの名誉のために断っておきますが、彼らは暴力はしていない。現在では。
しかし、過去には暴力を奮っていたし、オウムと同じく仏教をアレンジして民衆のマインドコントロールに使っている。
語弊がないよう注釈を入れていきますが、宗教そのものに罪はない(問題ない)それはオウムにしても同じことで、もう一度赤軍の言葉を読み返してほしい
革命をしたかった。ぼく個人ばかりでなく、
全体が幸福になる世の中をつくりたかった。
・・・そのためにぼくは生きていた。

これ自体に悪いところは何もない。というか、オウムも創価学会も同じようなことを言っていないだろうか?
ちなみにフランスでは創価学会は宗教団体ではなく、「カルト」として位置づけられている。
では、いったいどこまでがセーフティなんだろうか?

■赤軍の狂気と常識の境界線
赤軍は人殺しになってしまった アウト
オウムは人殺しになってしまった アウト
創価学会は人殺しではない セーフ?
そんな単純な話ではないだろう。
前述で創価学会のことをマインドコントロールと称したが、その根拠を具体的に挙げたい。
何度も繰り返しているが、宗教自体に問題はないし、人々の幸福をスローガンに掲げるのはよい話である。では、何が問題なのか?
生々しい話を挙げる。
創価学会は選挙活動において、担当地区を決め、勧誘ノルマを決めている。これは週刊誌で書かれるような誹謗中傷ではなくて、事実だ。学会員に直接聞いた話でもある。
つまり、宗教で統一された団体がほぼ強制的に、かつ、なんの疑いもなく組織票集めの選挙工作として使われているのだ。これをマインドコントロールと言わずしてなんといおうか。
学会員は口々に自分の意思で。と言う。
しかし、それは違う。トップから指示された支援者を応援するだけだからだ。
立候補するすべての候補者を吟味した上で、自らの意思で候補者を推すのではない。
国会の見解がどうであれ、これを政教一致と呼ばなければ、なにを政教一致と呼ぶのだろう。
つまり、思想という名の盲目の道具になっている。
これは赤軍やオウム真理教に共通する狂気である。
違いは、かたや破滅への道を辿り、かたや選挙活動の駒として利用されている(制御されている)かの違いでしかない。
ここでもう一度念を押しておきたいが、創価学会が行っている宗教活動に異論を唱えるものではない。むしろ、良いことをやっていると個人的には思っている。
そうではなくて一部の利益享受者のために選挙活動を行っている、その盲目さが恐ろしいのだ。

■盲目の果て
日本赤軍の話でありながら創価学会の話で締めくくりたい。
それはボクが盲目と狂気を同列にみているのと、現代において日本赤軍と同等の狂気を持ち合わせているのが創価学会だからである。
信者実数400万人強を誇り、日本最大宗派とまで言われる力を持ちながら、排他的で非常に攻撃的な思想をその旨とする。彼らが発刊している聖教新聞を御覧になったことがあるだろうか?
やたらと「大勝利」や「決起せよ」といった文面が目につく。
日本赤軍の口上と差があるだろうか。要するに穏やかでないのだ。
日本は信教の自由が保障されている。
誰が何を信仰してもよい。だからこそ、何も他宗教を攻撃する必要はないのだが、彼らは他を攻撃し、勝利することを目標としている。それは平和的とは言い難いであろう。危害を加えなくとも憎しみの種をばら撒いているからだ。
数え上げればキリがない。洗脳された集団の恐怖がそこにある。
1937年(昭和12年)に発足し、まだ100年も立っておらず、源流である日蓮正宗に破門されたにも関わらず「宇宙の真理で定められた宗法である」と信じてやまない信者たちを前にすると恐怖せずにはいられない。
自己の判断で行動することができない。盲目状態である。

■誤解なきよう
無用な誤解を招かないために最後にもう一度主観を表明しておきたい。
ボクは『週刊新潮』などのように内容をねつ造してまで反創価を歌いたいのではなく、理想、その後生じた盲目から狂気に至る日本赤軍の変遷を創価学会の理想、その後生じた盲目までの軌跡と照らし合わせたかっただけである。
何度でも言うが、宗教の教えそのもの、および地域貢献に対する姿勢は非常に好感が持てる。焦点としているのは、その善意という名の盲目さが利用される危険性についてである。
・他を攻撃する
・ノルマを貸して組織ぐるみで選挙活動をする

それが狂気といっているのであって、宗教、またその信者の真摯さを批判するものではないと断言したい。
信者の方々にはぜひ、良いとこは取り入れ、悪いところは切る。広い視野を持って自分の頭で判断していただきたいと願う。
それでもそう考えられないところが盲目さではあるのだが・・・。

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